この2本のアコウは、南薩地区を代表する巨樹です。
アコウは元来、樹勢の強い木ですが、これほどの巨樹は少なく貴重な木です。
かつて、密貿易が盛んな頃には、貿易船の係留や目印に使われていたと言われています。
地域の方々とともに大切に保護していきたい木です。
科名:クワ科
樹齢:300年
幹周り:7.0~8.0m
樹高:19.8~22.0m
「蒲生のクス」は、昭和63年度に環境庁の巨樹・巨木林調査によって、日本一の巨樹であることが証明された。
樹幹の下部には凹凸が多く、内部には直径4.5m(約8畳敷)の空洞がある。
枝張りは四方に広がり、その壮観な様は、まるで怪鳥が空から降り立ったようである。
保安4年(西暦1123年)閏2月21日に、蒲生院の領主であった蒲生上総介舜清(かもうかずさのすけしゅんせい)が、豊前国宇佐八幡宮を勧請して、この地に正八幡若宮(蒲生八幡神社)を建立した。
その時すでに「蒲生のクス」は、神木として祀られていたという。
伝説では、和気清麻呂(わけのきよまろ)が宇佐八幡の神託を奉上し、大隅に流された時に蒲生を訪れて、手にした杖を大地に刺したところ、それが根づき大きく成長したものが「蒲生のクス」だとも言われている。
また、出水地方に残る伝説では、悲しき恋物語によって「出水の大楠」と「蒲生のクス」は互いに相思の楠であるとも言われている。
これまでの長い歳月や自然災害の影響で「蒲生のクス」の樹勢に衰退が見られたため、蒲生町では、この歴史的遺産を末永く保護し、構成に伝え残していこうと、平成8年度から4ヶ年計画で国庫補助事業による「蒲生のクス」保護増殖事業を実施した。
国天然記念物指定:大正11年3月8日
国特別天然記念物指定:昭和27年3月29日
推定樹齢:1500年
樹高:30.00m
根回り:33.57m
目通り幹周り:24.22m
樹根空洞:直径4.5m
ここは太平洋戦争末期、日本海軍の基地があった場所です。
濠の高さ・幅はともに2~3m程で、手掘りによって作られたトンネルが網の目状に張り巡らされています。
総延長は約650m。
濠の中には魚雷保管室や動力室がありました。
この基地は、アメリカ軍の本土上陸を阻止するために編成された海軍特攻戦隊の一つ「第五特攻戦隊」の司令部です。
ここに近くには通信施設もあり、佐世保鎮守府や南九州一帯に配備された各突撃隊との連絡を行っていました。
まさに本土決戦に備えた日本の海防の要だったのです。
また、この基地で通信兵として暗号解読などにあたっていたのが作家・梅崎春生です。
彼はここで終戦を迎え、その時の体験をもとに戦争文学の傑作と言われる小説「桜島」を書きました。
この基地は小説の舞台でもあり、「文学遺産」ともいえる場所なのです。
出水海軍航空隊の歴史
出水における飛行場築造は昭和13年ごろから行われ、昭和15年から飛行機の発着が始まりました。
昭和16年4月1日には佐世保海軍航空隊出水分遣隊が置かれ、昭和18年4月1日に出水海軍航空隊として開隊されました。
当初は訓練航空隊でしたが、昭和19年から実戦部隊の基地となり、260名を超える多くの特攻隊員が南方の空に散ることとなりました。
また、この基地を含めて周辺も、アメリカ軍による激しい空襲を受けて、航空隊員や民間人に多くの死傷者が出ました。
この公園は昭和43年に一部開設され、若き英霊を弔うために昭和35年に建立された特攻碑が、基地跡とともに昭和54年に特攻碑保存会(当時)から市に寄贈されて、現在の姿となっています。
衛兵塔
旧出水海軍航空隊の正面道路脇に設置され、基地の入口に衛兵た立哨し警戒したところです。
衛兵塔の外壁には、爆撃による弾痕が残されています。
防空壕
この防空壕は、昭和19年に解説された地下戦闘指揮所の地下壕です。
空襲の激化に伴い、この壕内から全ての戦闘指揮がなされました。
壕の入り口は4箇所ありましたが、そのうち2箇所は空襲により破壊されました。
名称:特攻碑公園地下壕
開扉時間:9時から17時まで
休館日:月曜日(月曜日が祝日の場合は火曜日)及び年末年始
※雨天時は足元に水がたまり滑りやすくなりますのでご注意ください。
【問い合わせ先】
出水市都市計画課計画管理係
0996-63-2111(内線361・362)
山陵とは帝皇の塚墓をいいます。
日本書紀に「彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊は、西の洲の宮で崩御、日向の吾平山上陵○○に葬る」と記載されています。
御陵の所在については、明治(1874)7年7月10日に肝属郡姶良郷(吾平町)上名村を御治定になりました。
古事記には、彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊を「天津日高日子波限建鵜草葺不合命」と載せています。
御陵のあるところを、俗に鵜戸山(うどさん)といい、窟を鵜戸岩屋(窟)と称しています。
姶良名勝誌には、窟内に大小御陵二ケ所あり、その内の大の塚は彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊の御陵で、その東の小の塚は后妃玉依姫(神武天皇の御母)の御陵と申伝云々と記されています。
陵域は甚だ広いです。
彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊を祀る鵜戸六所権現(現鵜戸神社)は、ここから北方約6kmの麓宮前にあります。
神武天皇妃吾平津姫を祀る大川内神社は、南方約4kmの神野大川内の地にあります。
旧笠之原飛行場として、大正11年8月から昭和20年8月15日まで24年間にわたり、旧陸海軍の飛行場基地として使用されていました。
太平洋戦争末期の昭和19年1月15日には海軍航空基地が設置され、田中隊一個中隊が常駐することとなりました。
また、昭和20年1月には第203航空隊零式戦闘機72機が配備され、特別攻撃隊として南海の戦場に散りました。
その後、昭和20年3月18日の連合軍の集中砲撃のため、格納庫を始めとする基地施設は消滅し、当時を物語る唯一の遺物として、このコンクリート入口が、東西に走っていた滑走路へ通ずる地下道入口ならびに地下通路司令室として現存しているものです。
元々は、民有地を買収して飛行場が作られた関係上、終戦により地元地区民に農地として無償で払い下げられ、現在に至っています。